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生き辛さはどこから?

生き辛さはどこから?

「なんだか毎日が辛い」「疲れる」「人と関わるのが苦手」
「どうしたことか人とぶつかってしまう」
「なぜか自分が悪者になってしまう」

人生人との関わりの中でいろいろなことが起こりますね。
アドラー東北へ足を運んでこられるのは、自分ではどうしてなのか良くわからないけど「疲れるな」「うまくいかないな」と感じておられる皆さま。

もしかしたらこのページを読んでいるあなたもそうかもしれません。

最初はどの方も皆さん「思いつめた顔」「疲れ切った顔」をしていらっしゃいます。
ところが何度か足を運び、仙台・盛岡・郡山の各会場でアドラー心理学を学びながら他者と関わるうちに、自分らしさを取り戻すことで''、「笑顔が増えて穏やかな顔」''になっていかれます。

それは「うまくいかない方法」を使っていたのを変えたことで得られる幸福感。そして「自分は自分でいいんだ。」という自信。

それらがアドラー心理学の学びの中であなたの笑顔をもたらすのです。

これからアドラー心理学を学ぼうという方は次の項目をチェックしてみてください。

あなたの生きづらさは劣等感から来ているのかもしれない?!

~さんと比べて劣っている・自分の目指すところまではまだまだと感じる誰でも持っている劣等感ーそれを他者との競争に使うと生きにくい

あなたの生きづらさは承認欲求から来ているのかもしれない?!

認められたいという承認欲求ー強すぎると自分を見失い周りに振り回されて疲れる

あなたの生きづらさは同調圧力から来ているのかもしれない?!

皆と同じにしなければはじかれると恐怖を抱く同調圧力ー赤信号みんなで渡れば怖くない?

あなたの生きづらさは認知のゆがみから来ているのかもしれない?!

「自分が嫌いだ」「認められたい」という承認欲求「空気を読まなきゃ」という同調圧力・そして歪んだ物事の捉え方「認知のゆがみ」

「嫌いな自分を自分で創っていませんか?」
「競争」していませんか?
「他者比較」していませんか?
誰かや何かに認められるために行動していませんか?
他の人と違うことを恐れて暗黙の同調に迎合していませんか?
他の人とあまりにもかけ離れた物事の捉え方をしていませんか?

あなたの生きづらさは「競争」「他者比較」「他者承認」「同調圧力」「認知のゆがみ」から生まれているのではありませんか?

「アドラー東北の提案する人生を楽に生きるコツ」

「自分の心地よいペースで生きること」
「誰かや何かの上に立とうとしないこと」
「誰かや何かに認められようとしないこと」

劣等感のアドラー

人生の意味の心理学・100分de名著

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「人生の普遍的な欲求は優越性の追求である」A・アドラー

「すべての人を動機づけ、我々が我々の文化へなすあらゆる目標の源泉は優越性の追求である。人間の生活の全体はこの活動の太い線に沿って即ち下から上へ、マイナスからプラスへ、敗北から勝利へと進行する

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このページでは、自分が好きになれない方やどうも人付き合いが苦手で、疲れてしょうがないなどの悩みをお持ちの方に生き易さのヒントとなることを書いています。

ポイントは「自己受容」「劣等感」「承認欲求」「同調圧力」「認知のゆがみ」です。

「自己受容」

「自分には欠点もあるけれど、それでもそういう欠点も含めて自分が好き」
あなたは自分にそういうことができますか?
これを自己受容と言います。

アドラー心理学を学んで自分を勇気づけることができるようになると「自己受容」できるようになります。

「自己受容」できる人は、失敗や困難に出会ってもむやみに落ち込んだり尻込みしたりしません。

次こそはうまくやろうと思い、困難をどうしたら克服できるかと考えることができます。そしてチャレンジします。

何物にも代えがたい「自己受容」をアドラー心理学の学びを通して自分のものにしてください。

湧き上がるやる気と自分が好きと言う感覚は、お金や物や他者からの承認などの他のなにかでは手に入らないものです。

自己受容は、あなたの一生の宝になります。」

「劣等感」

「自分は劣っている」という感覚「劣等感」どう使っていますか?

他者と比較したり自分の目指すところと比べて、今の自分は劣っていると感じる劣等感ーアドラー心理学では劣等感をどう使うかで人生は変わると考えます。

アドラーが言っているように人は「下から上へ」「マイナスからプラスへ」優越を追及して生きています。

劣等感」は自分が劣っているという感覚、その際に基準となるのは、今の自分自分が目指す自分です。

もしも劣等感がなければ、私たちは行動を起こしません。
すなわち「劣等感」は、私たちの行動のエネルギーです。

生きづらいと感じている人は「劣等感」が過度であったり、他者を基準に劣等感を膨らませ、マイナスの感情を使って(怒り・嫉妬)などで破壊的に克服しようとし、他者との競争原理で生きています。

負けたくないという気持ちを他者に向けて相手を憎んだり、嫉妬したりすることは自分をとても疲弊させます。また相手との関係を悪くします。

自分を高めることに劣等感を使えばいいのですが、「競争」にエネルギーを使ってしまうのです。だから疲れるのです。
たとえ一人の他者を超えたとしても次には別の他者がこえる対象として浮上してきます。他者との競争で劣等感を使うという事はきりがなく、常に戦って生きている状態なので疲労感がぬぐえない};のです。

アドラーは劣等感を健康的に使うことを勧めています。

劣等感」を持つことは悪いことではありません。
その劣等感をどう使うかなのです。

「二つの劣等感」

劣等感には二つあります。
ひとつは「対他劣等感-自分以外の他者と比較することにより自分が劣っていると感じる感覚です。

もう一つは「対自劣等感-目標とする自分と今の自分の差から感じる足りないという感覚です。

劣等感そのものは悪いことではないのですが、それに付随するネガティブな感情が私たちを悩ませるのです。

それは「妬み」「嫉妬」「怒り」「焦り」「不安」などです。

感情は自分を操作する目的でも使用されるとアドラー心理学では考えますから、それらのネガティブな感情を使って「建設的な方向へ行く」または「破壊的な方向へ行く」という選択を自分でしています

ライフスタイルの行動パターンも関係しますので、人それぞれなのですが、劣等感とそれに付随する感情、そして行動を自分なりに観察し、自分を苦しめるパターンを見出すことが大事になってきます。

アドラー心理学の考える劣等感の使い方として例をあげておきます。

(ケース1)ー劣等感を破壊的に使い他者との関係を悪くしているワーストなケース

たとえばAさんは背の高さに劣等感を持っているとします。
背の高いBさんに対して劣等感を膨らませたとしましょう。

「うらやましい」ぐらいの気持ちであったものが「妬ましい」まで膨らむと、かなわない背以外の事でBさんを貶めようとすることが出てくるかもしれません。

このケースでは「妬み」という感情を使って「背が低い」という劣等感を相手を攻撃するという方法で使っています。
これでは自分や他者に対して破壊的に使うことになり、他者とはうまくいきません。

(ケース2)-劣等感を他者との住み分けという方法で使っているが目指す相手はおり「競争」には変わらないーベターなケース

Aさんは背の高さではBさんにかなわないことを認めていて、それは自分の努力ではどうしようもないことがわかっています。

ですのでほかの分野でBさんに勝とうとします。
勉強ではBさんに負けまいとしたりBさんにスポーツでは負けまいとしたりです。これは結果として自分の劣等感を別の方面の向上に使うことになりますが、あくまでBさんという対象があってのことですから、競争には違いありません。ただ、「背」についての部分では争わないので表面的には建設的なように見えますし、他者との関係も悪くなりません。一種の住み分けと言えると思います。

(ケース3)ー健全に自分の劣等感を自分を高めるために使い他者にも貢献できているーベストなケース

Aさんは自分の背の低さに劣等感を持っていますが、それで自分ができないことがあることについて悔しく感じています。
バレーボールをしていますが、背が低いのでスパイカーにはなれませんが、セッターとして活躍することで「背が低い」という劣等感を克服することに成功しました。
今では名セッターとしてチームの重要な頭脳になり大会になくてはならないメンバーになっています。

「劣等感が過度であるとは」

劣等感が過度である状態とは、今の自分からかけ離れた現実的でない理想を持っていることです。

目標が高すぎる・またはありとあらゆる分野で他者に勝とうとしている状態もそうだと言えるでしょう。
過度の劣等感は自分の自信を失わせてしまいます。他者との関係を悪くするのみならず自分の勇気をくじいてしまいます。

自分のありのままを認めできることをハードルを上げ過ぎずに考え実行していくーそういう努力が求められるでしょう。

「承認欲求」

「人に認められたい」=「承認欲求」も過度になると自分が疲労する

「人に認めてもらいたい」という気持ちは誰にでもあるものです。

しかしそれも度を過ぎると自分のエネルギーを消耗する原因になります。
アドラー心理学では過度に人に認められたいと思うことは心の健康にとって良い事ではないと考えます。

人に認められたいという行動は「褒められたり叱られたり」して育った私たちには誰でもあることです。

でももし自分の行動を見て「他者に認められること」がすべての基準になっているとしたら?それは考え物です。

なぜかというと「認められたい」は「評価」だからです。
「褒める・叱る」も評価なのですから、あなたの人生の行動基準が「評価」になっている可能性があります。

他者から「評価」されることを求めて行動するのはとても苦しいことです。
それを求めると相手の顔色をうかがってご機嫌をとりながら暮らしていることにもなります。

「喜んでくれるだろうか?」「気分を損ねたのでは?」と相手次第で一喜一憂することになり、自分の感情が振り回されていませんか?

「褒められるから行動する・しない、叱られるから行動する・しない」

「こういう承認欲求から自由になれた時私たちは心の軽さを得られるのではないでしょうか?」

「同調圧力」

「赤信号みんなで渡れば怖くない」
日本人の特性としてみなと同じであることはとても大事な価値観として背景にあるように感じます。

でももしも自分がそうしたくないと思っているのに周りに合せていることが多いとしたらそれはとても辛いことです。

無言の圧力をかけられて他者と同じであることを強要されているように感じたり、出る釘は打たれるとばかりに社会的にたたかれたりする経験を通して私たちは他者と違うことをことさらに恐れるようになっているのかもしれません。

そんなとき自分に問いかけてみることです。
「それは本当に自分がそうしたいと思ってしていることなのだろうか?」と。。

そしてもしもそうでないなら「勇気」を持って同調しないという選択をしていけばいい。
もしも同調するのであればそれはそれを認めていることに他なりません。

厳しいようですが「嫌だったけどみんなと違うのは怖かったから」というのは、結局認めたという事になるのです。

NOを言えない方もストレスフルでパンパンになっているように感じます。
本当の気持ちを言えないことで自分の中にもやもやを抱えたままでいるからですし、そういう自分を嫌だと感じているからです。

これもアドラー心理学でいうところの「勇気くじき」に他なりません。

たとえNOを言ったとしてもあなたの価値には何も変わりはありませんし、そのことであなたを批判し、否定する人がいたとしたら、あなたにはそういう付き合いは必要がないのです。

「自分の気持ちに正直になることができ、それを相手に伝えることができる。」

これほど気持ちが楽になることはありません。

「セクハラ・パワハラ」

NOが言えないーセクハラとパワハラ
「嫌われるのが怖い」-「嫌うのは誰の問題?」

嫌だと言えない、残業を毎日押し付けられる・性的な言葉を言われて不愉快である。
もしもこんな状況にあなたが耐えているとしたら、嫌われても自分のために他者のためにNOを言えればいいのですが、アドラー心理学ではこんなとき「課題の分離」を使うのです。

誰の課題か考えてみましょう。

NOを言えないのは誰の課題ですか?
ー言わないのは自分の課題

だまって耐えてその行動を続けさせているのは誰の課題でしょう?
ー自分の課題

NOを言った時あなたを嫌うのは誰の課題ですか?
ーあなたを嫌いと思うのは相手の課題

NOを言った時嫌われるのを恐れるのは誰の課題でしょう?
ー嫌われたくないのは自分の課題

パワハラやセクハラを相手と自分の課題で整理して見ると思いがけず自分の課題がたくさん出てきます。
ということは、あなたができることがたくさんあるという事です。

その態度を助長しているのは他ならないあなたの課題だとすればはっきりNOをいう事で助長を押さえることができます。

そしてもしもあなたがNOをいう事であなたを嫌うとしたらそれは嫌う側の課題なのであなたがそれを気にすることはないのです。

それでもあなたは我慢をし続けますか?
それはあなたを勇気づけることになるのでしょうか?

他者との関係を悪くしたくないばかりに言いたいことを言わないのはやめにしませんか?

言い方ひとつでもしかしたら伝わるかもしれません。わかってもらえるかもしれません。
でも最初からチャレンジさえしなければ何も変わりません。

はじめるのはあなた自身から・・なのです。

「認知のゆがみ」

アドラー心理学のメインとなる5つの方法論の中に「認知論」があります。人はほとんどの出来事を自分なりの主観で解釈しているという理論です。

すなわち''人は自分だけのオリジナルメガネをかけて物事を把握している''という事です。

同じものを見てもそれぞれ思うことは違うのもそうです。

たとえば「象」を見て連想することといえば、体が大きい・鼻がながい・皮膚がしわしわ・インドなど10人いれば10人の言葉が出てくるでしょう。

これらはどれも象に関わる言葉としては適切ですが、「象」という言葉からあまりにもかけ離れた連想をする場合、共通感覚からの逸脱として他者とのコミュニケーションに不具合を生じます。

いじめという言葉で考えてみると「可哀想」「協力」「解決」「あってはならないこと」など出てきます。
それに対して「死」や「殺」などの連想が出てくるようですとこれは修正していかなければなりません。

こういうあまりにもかけ離れた物事の捉え方を「認知のゆがみ」と言います。人は多少なりとも認知がゆがんでいるものですが、極端な傾向のある人には言葉に特徴があります。

「絶対」とか「いつも」とか「必ず」などの決めつけ言葉があります。
または「~べき」「~ねばならない」「~に違いない。」などもそうです。

ベーシックミステイクスにはいくつかありますので例をあげておきます。
いずれもよく見聞きすることです。

アドラー心理学では主に5~6個を取り上げます。
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今朝主人とけんかをして本当に腹が立った。だから職場で同僚に主人の悪口を聴いてもらってすっきりした。多分主人も職場で私の悪口を言っているに違いない(決めつけー事実はどうかわからないのに決めつけている)
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Aさんは今日も私に話しかけてこなかった。きっと私の事が嫌いなんだわ。(誇張ー大きく誇張して捉える)
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今日はミスをしてしまった。この先この仕事をしていく自信がないな。
(過度の一般化ー一つの事を取り上げて全部に当てはめる)
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あと一歩でうまくいくはずだったのに、最後の仕上げで失敗してしまったわ。今日の料理は全く駄目ね。(単純化ーオールオアナッシング)
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今日の会議で自分の提案が通らなかったなあ。みんな私の意見には反対なんだな。(見落としー賛成してくれる人もいるのにみんなが反対と思う。)
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失敗しちゃった。自分はきっと生きている価値がないに違いない。
(誤った価値観ーちょっとしたことで身を滅ぼしてしまうような価値観)
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所属を求めて

アドラー心理学では人間の最も根源的な欲求は「所属感」であると考えます。
孤立したくない・ここにいてもいいと思えることです。

所属感を得たいがために承認欲求で動いてしまうと、他者に自分の価値を認めてもらうのに依存し、自分を見失うことになります。

承認欲求が強いと注目を得ようとしたり権力争いをしたりしがちになり特別な存在になろうとするのです。
すなわち「その他大勢にならないようにする。」

「人と違うこと」に価値を置くのではなく「わたしであること」に価値をおくのが本当の個性。

自分らしさを大事にするという事はそういう事でもあります。

「幸せになる勇気」

承認欲求の落とし穴

私たちは褒められたり叱られたりして育ちました。ですので褒められること、叱られることで自分の行動を決めてしまいがちです。

褒められなければやらない、叱られなければやらない。

それはとても多くのケースで見られます。
これが承認欲求です。

褒められたり叱られたりしなくても、自分がやりたいと思い、そして役に立ちたいと思い、行動を起こすのは勇気づけができているから。

自分をまずは勇気づけることで、他者の基準から脱却できることで、他者の承認を必要としなくなりますので、誰かや何かに認められる必要がなくなり
本当の自分の気持ちに正直に生きることができるようになります。

アドラー東北では、子育てや教育のみならず、自分自身に対しての勇気づけを重視し、まずは自分を自分で勇気づけられることを優先して勉強会やセミナーを提供しています。

勇気づけには三つのステップがあり、まずは自分を勇気づけできることが最初です。
次に他者に対する勇気くじきをやめます。そして自分が他者を勇気づける段階へと進んでいくのです。

勇気づけは自分の内側からのエネルギーを湧き起こしますので、誰かや何かから動かされる外発的動機付けとは違い、あくまで自分の自発的な行動へと結びつきます。

承認欲求から解放されるのも、自分の意思で動くようになっていくと自然に必要なくなっていくからです。

まずは「勇気づけ」られると自分がどういう気持ちになるのか、勇気づけによって自分に何が起こるのか体験していただくことが先決です。

そのことによってアドラー心理学を学ぶ道に進まれる方が多く集ってくださっているのがアドラー東北です。

画像の説明

自分との向き合い方ー私の場合

「受け身」から「能動的」であることへの変遷
感情の封印・自分を守るための他者への無関心

アドラー心理学を学び始めてカウンセラー養成講座を受講後、自分の早期回想から様々な自分の生き辛さの要因がわかってきました。

早期回想からまず出てきたのは「ほとんど感情がない」ということでした。
子どものころから「感情を封印してきた」ことに私は気が付いていませんでした。
また「他者への関心」もほとんどありませんでした。

相手の気持ちに無関心であり無頓着であったと言えると思います。
「理解してもらえない」「分ってもらえない」と相手が感じていたのでしょうからこれでは他者とはうまくいきません。

「感情の封印」はどこから来たのか。。
今で言えば「虐待ともとられかねない父親のしつけと称した体罰」を思い出します。

幼い子供ですから泣いたりわめいたりして謝りましたが、それが聞き入れられることはありませんでした。

「あきらめ」がこの時私の中に根付いたのかもしれません。
また小学校5年生の頃にあったいじめも泣いてもわめいても助けを求めても誰も何もしてくれませんでしたので、「あきらめ」はさらに深くなってしまったのだと思います。

自分の主張は何をどうやっても聞き入れてもらえない、それならば封印し、黙って居たほうが楽なのですものね。
疲れませんもの。。
それ以来といいますか大人になってからほとんど感情を使わないで生きてきたように思います。
「無関心」で冷たい人間、人の気持ちがわからない人であるときっと思われていたに違いありません。

基本的に受動的であったのはこのころまでですので、その後どういう経緯で能動的になったのかと言えば、「結果を出したり」「他者より良い成績」や「良いパフォーマンス」をしたことで周りから認められるという事を体験から知ったからでしょう。

もともと受動的であるのに能動的でないと他者からの危険にさらされるので能動的に行動せざるを得ないと考えるようになったのではないかと自分では思っています。

「長上者とのいさかい」-「長上者に対しての優越性を誇示」といった自分の行動パターンが浮かび上がってきます。

アドラー心理学を学んだことでまだまだ自分のパターンに陥りがちですが、長上者との関係を破壊的にしないで済んでいるところまでは改善されてきています。

かなり強いこの傾向は、アドラー心理学を学んだからこそ得られたことであり改善の努力をすることができたのです。

あなたもアドラー心理学を学んでいくうちにきっと自分の生き辛さがどこから来ているのかについて知っていくことができるでしょう。

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